About Face 翻訳こぼれ話 1: デザインの名言はどこからきたのか
来る2024年8月19日、『About Face: The Essentials of Interaction Design』第4版(Alan Cooper、Robert Reimann、David Cronin、Christopher Noessel 著、2014年出版)の邦訳版、『ABOUT FACE インタラクションデザインの本質』がマイナビ出版より発売されます。ソシオメディアが翻訳と監訳を行いました。現在、Amazon など各書店で予約受付中です。
『About Face』は、“Visual Basicの父” として知られる アラン・クーパー氏を主要執筆者とする、ソフトウェアについての他に類をみない実践的なデザイン書で、デスクトップやモバイルのネイティブアプリケーションはもちろん、ウェブアプリケーションや組み込み機器を含む多様なデジタル製品のデザインについて、リサーチ、コンセプトメイキング、ビジュアルデザインからマウスカーソルのあたり判定に至るまで全部入りで、その制作プロセスや事例、デザイン原則を網羅的に解説しています。
アメリカで出版されてから10年以上経ってようやくの邦訳版となりましたが、個人的な悲願でもあった『About Face』シリーズの日本での復刊は、いちデザイナーとしても本当に嬉しく思います。
ところで、このような専門書の翻訳や監訳が一体どんな風に行われているのか、疑問に思ったことはないでしょうか。翻訳については、まだ何となく想像がつくかもしれませんが、監訳とは具体的に何をするのでしょう。日本では毎年数多くの書籍が日本語に翻訳され、出版されていますし、ソシオメディアでもこれまで、様々なデザイン書の翻訳や監訳を行ってきています。しかしながら、その翻訳の現場の実態についてはあまり語られていないため、ほとんど知られていないのではないでしょうか。
そこで、『About Face』邦訳版の制作において私が体験した中でも、特に印象に残った出来事について書き留めておこうと思います。
文献調査
デザイン書や技術書の翻訳においては、詩や小説の翻訳とは異なる注意点がいくつかあります。その代表的な例が、引用文の扱いについてです。今回の『About Face』の翻訳にあたっては、本文中に何らかの文献からの引用があった場合、その文献が既に日本語に翻訳されている場合は、可能な限りそれを踏襲するという方針を取りました。そうすることで、引用された文と、既刊の邦訳書との同一性が保たれ、読者が引用文から出典にあたったとき、それが同じものであることを認識できるからです。
例えば、『About Face』の13章には以下のような引用がありました。
Apple’s Human Interface Style Guide has this to say about direct manipulation: “Users want to feel that they are in charge of the computer’s activities.”
Apple の『Human Interface Style Guide』では直接操作について “Users want to feel that they are in charge of the computer’s activities.” と述べている、と書かれています。ここではまず下訳として、英文をそのまま日本語に訳した「ユーザーは、自分がコンピュータの活動を管理していると感じたいのだ。」という文があてられました。それから、既に邦訳版がある場合はその訳を、の方針に則り、文献の調査を行いました。
まず最初に、著者が引用した元の文献が何なのかを調べます。『About Face』では通常、引用文献は巻末の Bibliography に記載があるのですが、これについては何故か該当するものがありませんでした。したがって、著者がこの本を執筆した 2014年当時の “Apple’s Human Interface Style Guide” を特定し、それが既に日本語に訳されているかどうかを確認する必要がありました。
Apple の Human Interface についてのガイドラインといえば、有名な『Human Interface Guidelines(HIG)』がありますが、実は『Style Guide』というものも別に存在します。どちらのことでしょうか。これは明白です。『Style Guide』は、用語の表記ルールを定めたルールブックであって、UI のことを書いたものではありません。念のため監訳者の上野が、たまたま持っていた 2006年版の『Style Guide』を確認してみましたが、そこに「direct manipulation」という言葉はありませんでした。ではやはり『Human Interface Guidelines (HIG) 』だろうということになりますが、 HIG には複数のバージョンが存在し、記載内容も異なります。引用元となったのはどのバージョンの HIG でしょうか。そしてそれは既に邦訳があるものでしょうか。
ひとまず『About Face』の 4th エディションが書かれた2014年あたりの HIG を見てみます。すると 2013年版の『OS X Human Interface Guidelines 』と、2014年版 の『iOS Human Interface Guidelines』のいずれについても「direct manipulation」という言葉はあるものの、引用されていた “Users want to feel that they are in charge of the computer’s activities.” という一文は存在しません。引用元になったのは、『About Face』4th エディション執筆時である2014年付近に公開された HIG とは別のバージョンのようです。
そこで、何か手がかりはないものかと『About Face』4th エディションの一つ前、3rd エディションの記述を確認してみたところ、全体的に 4th エディションとは少し違った文面ではあるものの、“Apple’s classic Human Interface Style Guide” のものとして、同じ一文が引用されていました。また、Bibliography には1992年版の『Human Interface Guidelines』と、2002年版の『Aqua Human Interface Guidelines』があげられています。ようやく引用元の文献を特定できました。そして幸運なことに、なぜか上野がその文献を両方とも持っていたので、すぐに内容を確認することができました。しかし驚いたことに、どちらの文献にも引用されているはずの文が見つからなかったのです。
どうやら、3rd エディションの Bibliography の記載は間違っていると思われます。しかし、まだ諦めるのは時期尚早です。3rd エディションの文面にヒントがありました。“Apple’s classic Human Interface Style Guide” ——「classic」とあるからには、3rd エディション執筆当時よりもさらに古いものの可能性が高そうです。そして、1992年よりも前に書籍になっている HIG は1987年版です。
1987年版の HIG を開いてみたところ、例の引用文の元になった記述が、なんと、“General design principles” の “Direct manipulation” のところにありました。やっと会えました。そして、1987年版の HIG は邦訳版が出版されています。後はこれに対応する日本語訳が分かれば OK です。ということで、さらに邦訳版も見てみます。しかし読み進めてみると、そこにあったのは「ユーザーにコンピューター操作の主導権を与えます。」という一文でした。うーん確かにガイドラインとしてはその訳でもいいかもしれないですが、引用された文脈とは合いません。そういうわけで、ここでは1987年版の HIG の邦訳を採用することはとりやめ、「ユーザーはコンピュータの動作を自分が管理していると感じたい。」という新訳を採用することにしました。
つまり、最終的に仕上がった訳に、散々調べた末に見つけた邦訳は結局使われなかったのです。ただ紆余曲折を経て、新訳するのが妥当であると分かっただけです。なんとも地道で、地味な作業ではありますが、専門書の翻訳や監訳においては、些細な引用文ひとつとっても、このような丁寧な調査が密かに行われていたりするのです。
サン=テグジュペリの名言
さて、『About Face』の文献調査で少し面白い出来事がありました。
『About Face: The Essentials of Interaction Design』4th Edition にはフランスの作家、サン=テグジュペリによるデザインについての名言として、同じ一節がなんと3度も引用されています。
in anything at all, perfection is finally attained not when there is no longer anything to add, but when there is no longer anything to take away.
これは「完成とは、加えるべきものがなくなった時でなく、取り去るものがなくなった時にようやく達成される」といった意味の言葉で、デザインに関する書籍でよく引用されるお馴染みの一節です。おそらくデザイナーであれば一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。しかし これについてもなぜか、巻末の Bibliography に明確な出典の記載がなく、ただ「De Saint-Exupéry, Antoine. 2002.」とあるだけでした。3度出てくるにもかかわらず。これでは2002年に出版されたか公開されたサン=テグジュペリの何か、としか分かりません。
サン=テグジュペリ(Wikipedia)
とはいえ、サン=テグジュペリは寡作な作家であり、中でもこの一節はかなり有名ということもあり、その邦訳を見つけることはそれほど難しくはありませんでした。というか、私はこの一節のある邦訳本をかつて読んだことがあったため、そのタイトルを記憶していたのです。サン=テグジュペリといえば、何といっても『星の王子さま』が有名ですが、この引用文は『Terre des Hommes』というエッセイ集に収録されているもので、日本語に訳されたものとしては『人間の土地』堀口大學 訳(新潮社 1972)があります。
ということで、『人間の土地』での記述を確認する必要が生じたわけですが、この本は偶然、監訳者の上野の家にあるとのことだったので、これを確認した上で訳を踏襲しようという事になりました。
堀口大學の翻訳による『人間の土地』の、「飛行機」と題されたエッセイによると、有名なデザインの名言が出てくるのは、次のような文脈です。前後関係が分かるように少し長めに引用します。
ぼくらのこの家も、たぶんすこしずつ人間らしさを加えてくるに相違ない。機械でさえも完成すればするほど、その役割が主になって、機械それ自身は目立たなくなってくるのがつねだ。人間の生産的努力のすべて、その計算のすべて、図表を前の徹夜のすべても、外面的な現われとしては、ただ一つ単純化に達するに尽きている一本の円柱、一本の竜骨、または一台の飛行機の機体に、女の乳房の、女の肩の曲線の、あの単純な純粋さを与えるまでには、多くの世代の経験を積まねばならなかったのだ。研究室における技師たち、製図工たち、計算手たちの仕事も、外見的には、その翼を、それが目立たなくなるまで、機体についている翼があるという感じがなくなり、最後には完全に咲ききったその形が、母岩から抜け出して、一種奇蹟的な天衣無縫の作品として、しかも一編の詩品のようなすばらしい質をそなえて現われるときまで、この調和を軽快にし、目立たなくし、みがきあげるにほかならないと思われる。完成は付加すべき何ものもなくなったときではなく、除去すべき何ものもなくなったときに達せられるように思われる。発達の極致に達したら、機械は目立たなくなってくるだろう。
唐突に「女の乳房」とか出てきてドキドキしてしまいますが、ここは原書がフランス語であることに思い至ってください。ええ、フランス文学ですから。
それで、例の引用箇所は、その直後を合わせるとこうなります。
完成は付加すべき何ものもなくなったときではなく、除去すべき何ものもなくなったときに達せられるように思われる。発達の極致に達したら、機械は目立たなくなってくるだろう。
何だか、よく引用されるデザインに関する名言と少し印象違っていると思いませんか。「発達の極致に達したら、機械は目立たなくなってくるだろう。」むしろこの文末こそが、このエッセイの主題のように思えます。格言めいた引用にはありがちなことではありますが、部分的に切り抜かれて使われていくうちに、意味が少しずつ逸れていってしまったのかもしれません。いわゆる「切り取り」というやつです。
英訳版の正体
そうして、晴れて該当箇所の日本語訳が判明したわけですが、話はこれで終わりませんでした。サン=テグジュペリはフランスの作家なので、原文はフランス語なわけですが、堀口訳がその邦訳であるように、『About Face』の筆者であるアラン・クーパー氏が読んだであろう英訳が存在しているはずです。そこで、上野がこの一節の英訳を調べてみたところ、堀口の日本語訳にあるものと随分異なっているというということが発覚したのです。
It is as if there were a natural law which ordained that to achieve this end, to refine the curve of a piece of furniture, or a ship’s keel, or the fuselage of an airplane, until gradually it partakes of the elementary purity of the curve of a human breast or shoulder, there must be the experimentation of several generations of crafts-men. In anything at all, perfection is finally attained not when there is no longer anything to add, but when there is no longer anything to take away, when a body has been stripped down to its nakedness.
この目的を達成するために、家具の曲線、船のキール、または飛行機の胴体を洗練するために、徐々に人間の胸や肩の曲線の基本的な純度に参加するまで、数世代の職人の実験があるはずです。何事においても、完璧さは、もはや追加するものがない時ではなく、もはや取り去るものがない時、体が裸に剥ぎ取られた時に達成されます。
何だか、堀口訳に比べて随分さっぱりしている。それに、文末の機械の話がなくなり、代わりに “when a body has been stripped down to its nakedness.” という一文が加わっています。これはどういうことでしょう。
私達は二つの仮説を立てました。
一つは、サン=テグジュペリがこのアイデアをいたく気に入っており、複数の著書で似たような発言をしている説。『人間の土地』からの引用かと思っていたものは、実は全く別の著書や、インタビューなどから引いたものだったのかもしれない。それなら、日本語訳に『人間の土地』の訳を持ってきては、誤りになってしまう恐れがあります。
もう一つは堀口大學が超訳している説。原書はフランス語なので、日本語に訳すのが難解すぎて、色々と膨らましている可能性です。まさかとは思いますが、しかし堀口訳と中原訳と小林訳のランボーの詩が全然違うことをふまえたら、あり得ないとも言い切れません。何たってフランス文学なのだから。
というわけで、まずは一つ目の仮説を検証することにしました。
調べてみると、日本では『人間の土地』として翻訳された『Terre des Hommes』は、そのままでは英語翻訳されておらず、該当の一節のあるエッセイは『Wind, Sand, and Stars』というタイトルで『Airman’s odyssey』という本に収録されているということが分かりました。そして、この本を確認してみると、やはり前述の英文が記されていたのです。
いま私達の手元にあるのは内容の異なる邦訳と英訳の二つ。では、これらの元になったと考えられるフランス語の原書には、一体何が書かれているのでしょうか。
パーフェクトなアメリカ版
私達は DeepL を使って、英訳版の記述を一度フランス語に変換した上で検索をかけるなどして、『Wind, Sand, and Stars』の元になったフランス語の記述を探してみました。しかし、一向に見つかりません。
そこで今度は、堀口訳の方をフランス語に変換し、検索してみました。するとついに、原書の記述に辿り着きました。そしてさらにそれを日本語に変換してみたところ、むしろ堀口訳は超訳などではなく、フランス語の原書にかなり忠実だということが分かりました。
『About Face』で引用していると思われる箇所について、まとめると以下のようになります。
原書フランス語
Il semble que la perfection soit atteinte non pas lorsqu’il n’y a plus rien à ajouter, mais lorsqu’il n’y a plus rien à retrancher. Au terme de son évolution, la machine se dissimule.
原書を元に DeepL で英訳してみたもの
It seems that perfection is reached not when there is nothing left to add, but when there is nothing left to subtract. At the end of its evolution, the machine hides itself.
原書を元に DeepL で和訳してみたもの
完璧になるのは、足すものがなくなったときではなく、引くものがなくなったときのようだ。進化の果てに、マシンは自らを隠す。
堀口訳(上記和訳とほぼ同意)
完成は付加すべき何ものもなくなったときではなく、除去すべき何ものもなくなったときに達せられるように思われる。発達の極致に達したら、機械は目立たなくなってくるだろう。
『Wind, Sand, and Stars』における英訳文(上記いずれとも異なる)
In anything at all, perfection is finally attained not when there is no longer anything to add, but when there is no longer anything to take away, when a body has been stripped down to its nakedness.
何事においても、完璧さは、もはや追加するものがない時ではなく、もはや取り去るものがない時、体が裸に剥ぎ取られた時に達成される。
『About Face』における引用文(『Wind, Sand, and Stars』とほぼ同じ)
in anything at all, perfection is finally attained not when there is no longer anything to add, but when there is no longer anything to take away.
それではこの、『Wind, Sand, and Stars』とは、何を英訳したものだというのでしょう。さっぱり分からない。
もう万策尽きたかと思いかけたその時、英語版 Wikipedia の Antoine de Saint-Exupéry を改めて確認していた上野が、『Wind, Sand, and Stars』という書籍に関して、これは『Terre des Hommes』の “simultaneous distinct English version” だと記載されていることに注目しました。
「英訳版の『Wind, Sand, and Stars』は『Terre des Hommes』をリライトした別バージョン、ということかもしれないですね」
確かに、英語版 Wikipedia の『Wind, Sand, and Stars』の詳細情報を確認してみると “Publication history” として、以下のような記述があります。
The French and English versions of this book differed significantly; Saint-Exupéry removed sections from the original French version he considered inappropriate for its targeted U.S. audience, and added new material specifically written for them, and Lewis Galantière translated the revised book into English.
この本のフランス語版と英語版は著しく異なる; サン=テグジュペリは、オリジナルのフランス語版からアメリカの読者にふさわしくないと思われる部分を削除し、アメリカの読者のために特別に書かれた新ネタを追加した。そしてルイス・ギャランティエがその改訂された本を英語に翻訳した。
『Wind, Sand, and Stars』(Wikipedia)
つまりサン=テグジュペリは、フランス語の『Terre des Hommes』を英訳してアメリカで出版するときに、アメリカでこの本が広く受け入れられるように、内容をいろいろと書き直したようなのです。だから、この英訳版の元となったフランス語の文は存在しない。『Wind, Sand, and Stars』は、『Terre des Hommes』の英訳版というよりも、英語で書かれた別バージョンであり、切り取りも何も、そもそも『Wind, Sand, and Stars』には、原書であるフランス語版やその邦訳版にあった、あの前後の記述は最初からなかったのです。堀口大學が忠実に訳した「図表を前の徹夜」とか「一編の詩品」とか「発達の極致」とかいう、原書のごちゃごちゃした——しかし詩情ある文句は、取り除かれていたのです。つまり件の名言には異なる原文が2種類あり、『About Face』(そして英語圏の人々)にとっての原文はオリジナルの『Terre des Hommes』ではなく、リライトされた『Wind, Sand, and Stars』の方なのです。
もしかしたらサン=テグジュペリは、『Terre des Hommes』をアメリカ向けに英訳するにあたって、フランス語の原文を読み返しながら思ったのかもしれません。「完成とは除去すべき何ものもなくなったときに達せられる」と自分で言っておきながら、俺はぐだぐだと言葉を重ねすぎなのではないか。除去するものが何もないと言えるだろうか? 本当に、完成だろうか? と。
そんなこんなで、私達のサン=テグジュペリによるデザインについての名言にまつわる旅は終わり、3度出てくる引用箇所には堀口訳が採用されることとなりました。
取り除くものがない完成版
『About Face』はそのファーストエディションから既に600ページ近くある大作ですが、サン=テグジュペリのデザインの名言によるなら、この全部入りの「完成版」は、もうこれ以上取り除くものがない状態で600ページあるというわけです。それだけインタラクションデザインには、人類の進歩に役立つようなソフトウェアのデザインのためには、学ぶべきことが多いということでしょう。
近年、大規模言語モデルによる高度な生成系AIの台頭や、ノーコードツールの技術的躍進により、参入障壁が下がったことで、より多くの人々が手軽にソフトウェアをデザインすることが出来るようになってきました。ソフトウェアのデザインは、もう一部の専門的な技術者に閉じられたものではなくなってきているのです。これはとても喜ばしいことですが、しかし一方で、深刻な問題も孕んでいます。インタラクションデザインの重要性と、その原則を理解しないままに作られたソフトウェアは、ともすれば当てずっぽうで、皮相的で、無配慮。極端に言えば「何もデザインされていない」と言ってしまっていいようなものに、なってしまいがちなのです。
ゼロ年代後半、Adobe AIR や Adobe Flex Builder 、非同期通信の行える Ajax など技術を利用したウェブアプリケーションの発達によって、 OSやネイティブアプリケーションについての知識があまりなくても、クロスプラットフォームのソフトウェアを手軽に制作できるようになり、多くのデザイナー、エンジニアがソフトウェアデザインの世界に飛び込みました。しかしそれは、見た目は整っていても、使いにくく、思い通りに動かないソフトウェアが数多く乱立するという結果を生みました。インタラクションデザインの方法を、そのような概念の存在をまるで知らないままに、皆が思い思いにソフトウェアを制作していたからです。
考えてみれば、私が過去に『About Face』シリーズの 3rd エディションを手にしたのは、まさにそのような時期でした。なぜこんなに上手くいかないのか、どうしたらもっと使いやすいソフトウェアが作れるのか。そのため何が足りないのかと模索していた時に、このシリーズに私は出会ったのです。だから余計に、今のような時代にこそ、本書が必要とされるのだと強く思います。
(7月31日、サン=テグジュペリの命日に)