About Face 翻訳こぼれ話 2: 消えたジョーンズ先生

高取 藍
2024年8月6日

来る2024年8月19日、『About Face: The Essentials of Interaction Design』第4版(Alan Cooper、Robert Reimann、David Cronin、Christopher Noessel 著、2014年出版)の邦訳版、『ABOUT FACE インタラクションデザインの本質』がマイナビ出版より発売されます。ソシオメディアが翻訳と監訳を行いました。現在、Amazon など各書店で予約受付中です。

書籍『ABOUT FACE インタラクションデザインの本質』の書影

『About Face』シリーズは、1995年に 1st エディションが刊行されて以来、2nd、3rd と数年ごとに新しいエディションが出ており、今回の邦訳版は 4th エディションにあたります。

2 とか 3 とかいうと、なんだか続き物みたいに思えるかもしれませんが、そういった形式ではなく、それぞれのエディションがアップデート版として独立した形になっているため、いきなり 4th エディションから読んだとしても問題ありません。コンセプトを同じくしながらも、技術や情勢の変化に応じて大幅な改訂が施されていっているというわけです。

特に 1st エディションから 2nd エディションへの改訂では、その構成が大幅に変更されており、インタラクションデザインという新しいデザイン分野の存在の宣言とともに、ユーザーモデリングの手法として今なお参照され続けているペルソナについて追加されています。Axioms(格言)と Design Tips に分かれていた原則集は、3rd エディションから Design Principles として一つにまとまりました。そして、3rd 、4th と版を重ねるごとに、1st エディションから提唱されていたゴールダイレクテッド・デザインを実践するためのメソッドが、より洗練されていっています。また、数多く掲載されている実例についても改訂の都度、新しいものを取り上げています。

このようなシリーズの特性上、邦訳版の制作にあたっては、前のエディションでの記述を頻繁に確認しながら行いました。改訂が重ねられるたびに統廃合され、順序が組み替えられていることによって、やや意味が不明確になっていたりする箇所について、その本来的な意味やニュアンスを違えてしまうことを防ぐためです。また、「About Face 翻訳こぼれ話 1: デザインの名言はどこからきたのか」の HIG の文献調査の話でも少し取り上げたように、4th エディションの翻訳時に現れた疑問が、それ以前のエディションでの記述が手掛かりとなって解決することもよくありました。

特に 1st エディションと、3rd エディションについては、現在絶版にはなっているものの、それぞれ『ユーザーインターフェイスデザイン : Windows 95 時代のソフトウェア デザインを考える』(テクニカルコア 訳、翔泳社、1996 年)、『About Face 3 – インタラクションデザインの極意』(長屋高広 訳、アスキー・メディアワークス、2008 年)として邦訳版も存在するため、特に同一文のある箇所について、訳文の妥当性を検討する際には判断材料として参考にしました。

何より、長年愛読しているシリーズを比較しながら読み、リライトの変遷をたどる作業はとても楽しいものでした。それは、複数の本を起点にそれぞれの時代を行き来するタイムトラベラーのようで、エキサイティングな体験です。

意地悪な地理の教師

各エディションに施されたリライトというのは、具体的にどのようなものかというと、例えば8章にある「Designing Considerate Products(配慮のある製品)」のくだりがあります。

この「Considerate Products」には、インタラクションデザインの核となる態度や姿勢について書かれています。もともと 1st エディションにあった記述のいくつかを、2nd エディションで「Designing Considerate Software」としてまとめたもので、3rd エディションで「Designing Considerate Products」とタイトルを変え、少しずつリライトされながらも、4th エディションにおいても掲載されています。この項目については、ちょっと面白いリライトもありました。

ここはお気に入りパートでもあるので、若干高めのテンションで翻訳文の確認を行なっていたのですが、その中の「Considerate products fail gracefully(配慮のある製品は上品に失敗する)」の後半の記述に私は引っかかりました。

Remember your incredibly mean junior high geography teacher who ripped up your report on South America because you wrote it in pencil instead of ink? And as a result, you hate geography to this day? Don’t create products that act like that!

中学時代、ボールペンではなく鉛筆で書いたという理由で、南米に関するレポートを破り捨てられたことはないだろうか?信じられないほど意地悪な地理の教師の仕業だ。そのときのトラウマが原因で、今も地理が大嫌いだったりしないだろうか?こんな思いをさせる製品を作ってはならない。

これは、フォームの [送信] ボタンを押した後、何らかの修正をシステムに求められた際、 [前に戻る] 矢印をクリックして戻ると、入力内容が全て消えてしまっていた、という、誰しも一度は経験のある残念な挙動をする製品について書かれた箇所に登場する文面です。私はこの「意地悪な地理の教師」のくだりが、まるで周知の事実のように書かれているため、何か元ネタがあるのかもしれないと考えたのです。確かに厳格で神経質な先生というのは数多くの物語に登場します。その中に、アメリカでよく知られた意地悪な地理の先生がいて、そのようなあるある話が定番になっていてもおかしくありません。

技術書やデザイン書の翻訳では、文化的背景を伴った表現や、ジョークについて、その背景を知らないと意味が分からないようなものについては、理解の助けになるような補足をすることがあります。本文の邪魔になってしまってはいけないので、伝えられるものには限りがありますが、できる限り著者が意図したニュアンスを汲み取れるようにするために、註を入れるか、訳文中で最低限補完するか、それとも訳文に上手く反映するかなどについて検討します。

例えば、「マウスの物理的な外観は、目的や用途を示すものではなく、経験したものと比較できるものでもないため、直観的に学ぶこともできない(マウスという名前すら、その点では役に立たない)。」という記述。この「マウスという名前すら」の「マウス」は「ねずみ」のことを指していますが、日本語圏において「(コンピューターの操作デバイスとしての)マウス」と「ねずみ」は英語圏ほど直接的なつながりを持っていません。「ねずみ」のことを「マウス」と言うことはもちろんありますが、パソコンの「マウス」の話をしているときに「ねずみ」のイメージはあまり想起されないでしょう。するとこの「マウスという名前すら、その点では役に立たない」という文は、邦訳版を読む日本語圏の読者にはピンとこない可能性があります。

そのため今回は「マウス=ねずみという名前すら、その点では役に立たない」という形で、表現を文中で補完することにしました。ちょっとしたことではありますが、そのニュアンスが端的に伝わるものになったのではないかと思います。

ジョーンズ先生の仕打ち

さて、地理のレポートの話に戻ります。このくだりには、何か元ネタがあるのでしょうか、それとも、単なる著者の経験談でしょうか。4th エディションの記述だけでは材料が少ないので、3rd エディションでの記述を確認します。

Remember Mr. Jones, that incredibly mean geography teacher in junior high school who ripped up your entire report on South America and threw it away because you wrote using a pencil instead of an ink pen? Don’t you hate Geography to this day? Don’t create products like Mr. Jones!

インクペンではなく、鉛筆で書いたからというので、中学の地理教師、ジョーンズ先生があなたの南米についてのレポートをビリビリに破いたらどうだろうか、その日から地理なんて大嫌いになるだろう。ジョーンズ先生のような製品を作ってはならないのだ。

“Remember Mr. Jones”—— 唐突にジョーンズという具体的な人名が出てきました。「ジョーンズ先生を忘れるな!」という、スローガン風のニュアンスでしょうか。念の為調べましたが、有名な「地理のジョーンズ先生」はいなさそうです。インディアナ・ジョーンズなら有名ですが、彼は確か考古学の先生です。ではさらに遡って、 2nd エディションではどうでしょう。

Remember Mr. Jones, that incredibly mean geography teacher in junior high school who ripped up your entire report on South America and threw it away because you wrote using a pencil instead of an ink pen? Don’t you hate geography to this day? Mr. Jones could easily have been a programmer.

ジョーンズ先生を覚えているだろうか。中学の時、南米についてのレポートをインクペンではなく鉛筆で書いたという理由で、全部破り捨ててしまった、あの信じられないほど意地悪な地理の先生を。今でも地理が嫌いでしょう?ジョーンズ先生は簡単にプログラマーになれたはずだ。

ほとんど同じですが、最後の一文が違います。そんな振る舞いをする意地悪なソフトウェアを作るのがプログラマーであるなら、ジョーンズ先生は簡単になれそうだ、みたいな意味でしょうか。2nd では「Considerate Software」だった見出しを 3rd では「Considerate Products」に変更しています。その際にリライトし、もっとストレートな表現に変えた結果、3rd の「Don’t create products that act like that !」となったのかもしれません。

まだよく分からないので、1st エディションも見てみます。

Remember Mr.Jones, that incredibly mean geography teacher in high school who ripped up your entire report on South America and threw it away because you handed it in in pencil instead of ink? Why couldn’t he have just asked you to transcribe it instead of forcing you to do it over? Don’t you hate South America to this day?Mr. Jones could easily have been a programmer.

思い出してしまう、ジョーンズ先生のことを。南アメリカについてのレポートを、インクでなく鉛筆で書いたという理由で破り捨てた、高校の時の地理の先生だ。何もゼロから書きなおさせずに、ペンでなぞるくらいで許してくれたってよいだろう。今でも南アメリカが憎いよ。ジョーンズ先生なら簡単にプログラマになれただろう。

ジョーンズ先生のエピソードが書かれたAbout Faceの文面

すいぶん詳細な描写が出てきました。これはもう、著者の個人的な体験談といっていいでしょう。「Why couldn’t he have just asked you to transcribe it instead of forcing you to do it over?」という一文に理不尽に対する抗議が込められています。2nd 以降では「junior high school」となっている箇所が「high school」なのは、1st エディション発刊後、「ジョーンズ先生は中学の時の先生だよ」と誰かに指摘されて修正したのかもしれません。やや意訳されていますが「Don’t you hate South America to this day?」が「Don’t you hate geography to this day?」に変わったのは、南米は別に何も悪くないだろうと思い直しての事でしょうか。でも、嫌な課題を出されたことで、その対象の方まで嫌いになってしまうみたいな事って、確かにありますよね。私も、フォスターの「Red River Valley」を縦笛で演奏する試験がちっとも上手く出来なくて恥ずかしい思いをしたせいで、大人になった今でも「Valley」と聞くと少し暗澹とした気持ちになります。「Silicon Valley」とか。ちょっと違うかもしれませんが。

ともあれ、このエピソードについては「意地悪な地理の教師」というアメリカ文化に共通的なメンタルモデルがあるというより、そういった子供の頃によくある理不尽な体験を例として、イメージを想起させる目的でこのような表現がなされているのだと推察されます。そして、「ジョーンズ先生」は、そのイメージに対してやや個人的すぎることもあって、リライトの過程で消えてしまったのかもしれません。ということで、訳文には特に何も追加しないことにしました。

1st エディションには、このジョーンズ先生への恨み節のように、ユーモラスな小話の記述が数多く見受けられます。しかしそのほとんどがいわゆる余談、ということもあり、版を重ねるごとに削られていっています。

改訂によって無くなった箇所で特筆すべきは、なんといってもラリー・テスラーに関する記述でしょう。3rd エディション以前までには、元 Xerox PARC の研究者で、元 Apple のチーフサイエンティストであったテスラーについて、「オレをモードに引きずり込むな(Don’t mode me in)」という T シャツを着ていたとか、車のナンバープレートも「NOMODES」にしていたとかいうエピソードと共に、「モードを避ける」という PARC の原則を紹介しているのですが、4th エディションでは、そのひとまとまりの記述自体がそっくりなくなっています。 PARC の原則に書かれた内容については、別の箇所に分散した形で記述されてはいるのですが、テスラーの話は跡形もなく消えてしまっているのです。私はこのエピソードが好きすぎて、この「Don’t mode me in」Tシャツの再現までしたというのに。

Don’t mode in me と書かれたTシャツ

確かに、サン=テグジュペリによるデザインの名言に則ると、これらのエピソードは本題から外れた余計なものかもしれないですが、私はこういう文学的余談が大好きなので、ちょっと寂しく思います。ゴールダイレクテッド・デザインのメソッドとは直接関係がないかもしれませんが、このような書き振りが好みという方は、ぜひ 1st や 3rd についても、手に入れて読んでみてください。

3rd エディションと 4th エディションの違い

削られるものがあるのは当然、かわりに追加すべき重要なものがあるからです。では、3rd エディションにはなくて、4th エディションにあるものは何でしょう。特に 3rd エディションを持っている方の気になるところはそこだと思います。もし同じようなことが書かれているとするなら、3rd エディションを持っていればそれで済むのでしょうか。
結論からいうと、 3rd エディションと 4th エディションはかなり違います。大きな相違点は、 第1部に新たな項目として、共創についてのアイデアが加わっていることです。

共創とアジャイル開発

ソフトウェアデザインの組織による取り組みは『About Face』シリーズにおいても重要なテーマとして扱われており、改訂のたびに分量が増え、メソッドとしても確立されていっています。1st エディションでは、最終章「我々はどこに向かっているのか」に筆者のアラン・クーパー氏の苦悩と葛藤とともに書かれ、「うんざりだ、もうこんなことはたくさんだ」と締めくくられていたデザインとエンジニアリングにまつわる艱難辛苦は、2nd エディションで、インタラクションデザインという新しいデザイン分野への取り組みとしてまとめあげられ、3rd においては他チームとの協力やリサーチとデザインを繋ぐその方法論が加えられ、より洗練された内容となっていました。

4th エディションの6章では、そこからさらに「創造的なチームワーク」として、チームの在り方やマインドセット、「ジェネレーター」と「シンセサイザー」という、思考のパートナーシップにおける新たなデザインモデルのアイデアが紹介されています。デザインマネージャーや、近年その重要性が注目されている プロダクトマネージャー(PdM) のように、デザイン組織開発やアイディエーションのファシリテートなどのデザイン領域を担う人には、きっとその活動のヒントとなることでしょう。

アジャイル開発についても言及があります。「アジャイル開発者との共同作業」ではアジャイルチームにおけるデザイナーの仕事や、アジャイルプロセスにおいてユーザーのフィードバックをどのように反映するのかについて、具体的な例を用いながら、その方法論と留意点が丁寧に解説されています。

ダニエル・カーネマンとスティーブ・アルビニ

また、ラリー・テスラーのエピソードはなくなってしまいましたが、代わりに追加されたものがあります。

例えば、6章の「思考力を高め、 共に考える」では思考のパートナーシップの例として行動経済学で有名な、ダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーの関係性について言及されています。行動経済学の方ではなく、その研究者のパートナー性について着目するところがいいですよね。ダニエル・カーネマンの研究論文については、近年ことごとく追試に失敗しており、再現性が疑われているものになっていますが、研究パートナーとしての二人の姿勢については、デザインの取り組みにおいて参考となることでしょう。もっとも、マイケル・ルイスの『かくて行動経済学は生まれり』(渡会 圭子 訳、文藝春秋、2017年)や、カーネマンによるトベルスキーへの追悼文を読んだことがある人は分かると思うのですが、この二人は相当のバディと思われるので、かなり難易度は高そうです。少なくともビジネスの都合とか互いのキャリアプランによって便宜的に共創するようなパートナーでは、その域には達し得ないでしょう。「ジェネレーター」と「シンセサイザー」はホームズとワトソンとか、ブルース・ブラザースみたいな運命共同体を指すのです。

さらに、同じ6章の「創造的な文化を確立する」では「プロセスは構造を提供することはできるが、アイデアそのものを生み出し、発展させるには光と生命が必要」として、レコードエンジニアのスティーブ・アルビニのメッセージが引用されています。このメッセージは、彼がレコーディング前にニルヴァーナのメンバーに宛てた FAX とされており、つまりその結果収録されたのはアルバム『In Utero』ということになるのですが、そう考えると、プロセスが提供するのは構造のみである、という言葉はとても重いものになりますね。『About Face』ではゴールダイレクテッド・デザインのメソッドの、そのノウハウを惜しみなく提供していますが、優秀なメンバーを揃え、プロセスをいくら忠実に再現しても、ただそれだけでいいデザインができるわけではない、ということも誠実に書いています。


『In Utero』(Wikipedia

iPhone の登場とアクセシビリティ

第2部、第3部についても大幅な改訂があります。3rd エディションと 4th エディションの背景として大きく違うのは、4th エディションが刊行されたのは iPhone が世界を一変させた後というところでしょう。したがって、各種モバイルプラットフォームや、タッチデバイス、iOS や Android など、3rd エディション刊行当時にはまだなかった OS の振る舞いについても多く加筆されています。

とはいえ、この最新版である 4th エディションも、10年前に刊行されたものであることから、あげられた事例には古いものも多くあります。しかし紹介されるデザイン原則の数々は、最新のアプリケーションやサービスのデザインにおいても広く適用できるものとなっています。実際、残念なことではありますが、本書で指摘されている問題点について、同様の過ちを犯しているアプリケーションが現在も数多く新たに誕生してしまっているのですから。

そのほか、個人的に興味深いと思った追加項目は、16章に「アクセシビリティ」についての記述が加わっていることです。グローバリゼーションについては、3rd 以前にも言及がありましたし、アクセシビリティについても、関連する記述は随所に存在していたのですが、4th エディションでは「アクセシビリティ」という項目としてまとまった形になっています。ゴールダイレクテッド・メソッドにおける「アクセシビリティ」向上への取り組みとして、「アクセシビリティのゴール」についてや、その調査やモデリングフェースにおいて「アクセシビリティ・ペルソナ」を利用するアイデアを提供しています。

また「アクセシビリティのガイドライン」として、ゴールダイレクテッド・デザインに適応したアクセシブルなデザインを実現するための原則についても解説されています。アクセシビリティというと、ウェブというメディアの特性もあって「ウェブアクセシビリティ」について語られる傾向が多くありますが、本書で紹介されているのはウェブに限定しない、ネイティブアプリケーションを含めたソフトウェアデザイン全般におけるアクセシビリティに対する基本的な考え方と、その取り組み方法を示しています。

これは、iPhone の登場によって幕開けしたモバイルプラットフォームの急激な普及と技術革新に伴って、ソフトウェアにおけるアクセシビリティの重要性を OS ベンダーやサービス提供者がより認識するようになり、アクセシビリティのガイドラインを示すようになったことの影響を受けての増補と思われます。

それでも変わらないもの

『About Face』の 1st エディションが刊行された 1995年は「Windows 95 時代の」とその邦訳版のタイトルに冠せられていたことからも分かるように、Microsoft Windows 95 が一世を風靡した時代です。また、2nd エディション刊行の 2003 年は Macromedia が「Miracle Experience」を掲げてウェブのインターフェースの世界に乗り込み、iPod が人気を博す中、 iTunes Music Store がサービスインしました。そして 3rd エディション刊行の 2008 年は、リッチインターネットアプリケーション(RIA)が牽引するウェブアプリケーション躍進の年です。さらに 4th エディションでは iPhone が登場します。つまり『About Face』はソフトウェアと人が共進化していく荒波の中で紡がれてきたということです。

私は今回、『About Face』邦訳版の制作に関わって、1st エディションから 4th エディションまでの変遷を目の当たりにし、時代の流れに合わせて変わりゆくものと、その中にあっても変わらないものについて考えました。技術が発達し、世界が一変するようなアイデアが生まれても、変わることのない思想が、インタラクションデザインには存在します。それは 1st エディションからずっと掲げられている人とコンピューターの関係性についての原則です。

The computer does the work, and the person does the thinking.

コンピュータが仕事し、人が考える。

そう、コンピューターが仕事をして、人が考えるのです。決してその逆ではありません。これは、高度に発達した AI 技術の時代においても、現実を拡張するウェアラブルデバイスの普及した世界においても、変わる事はありません。

ともすればデザイナーは、ビジネスの文脈に取り込まれ、人に考えさせないデザインによって、誘導的な仕組みを作ることに傾倒してしまいがちです。そうやって人を誘導することこそが、デザイナーの価値であると主張するケースですら散見されます。より良い体験に人を導くためだと、どんなにそれらしい理由をつけたとしても、それは人をコンピューターの、企業利益のための奴隷にすることと同義です。

コンピュータが仕事し、人が考える。『About Face』は シリーズを通し一貫して、この大切な思想を、インタクションデザインに従事する私達に示しているのです。