Medium – Information Architecture Summit Closing Plenary
私たちが属しているような文化では、ものごとをコントロールする手段として、何でも分割し区分するのが長らく慣習となっている。だから、何か作戦を立てたり実行に移す段になって、ことさら「メディアはメッセージである」などと言われると、ちょっとたじろぐこともある。それは、ただこう言っているのと変わらない。どんなメディアでも(メディアとはつまり、私たち自身の拡張のことだ)、それが個人的/社会的に及ぼす影響は、自分の個々の拡張や新たな技術によって各自の事情に持ち込まれる、新たな尺度によって決まるのだ、と。
マーシャル・マクルーハン(1964)
引用翻訳: 浅野 紀予(ÉKRITS / エクリ)
さて、今回が第15回目の IA Summit となるわけですが、(もちろん皆勤賞があるわけでではありませんが)私はすべてに参加してきました。では、なぜ私は毎回ここに戻ってくるのでしょうか? そうですね、こういう言い方があります。本当の会議は廊下で行なわれる、と。これにはいつも不公平だと感じてきました。サミットの公式プログラムは素晴らしいものです。過去にわたって私たちは、勇敢で優れたスピーカーの方々に楽しませてもらい、教えられ、刺激を受けてきました。もちろん、私は昔から参加しているので、通路で懐かしい友人に出会ってハグをしたりするのが好きです。けれども、そのプログラムとプログラムの「間」の時間は新しい友人を作る素晴らしいチャンスでもあるのです。また、それはとても大切なことなのです。なぜなら初参加の方々がこのサミットを生き生きとしたものにしているからです。
私は昨年、スペリオル湖の北西に位置するアイル・ロイヤル国立公園にバックパックで旅行に出かけました。美しい岩だらけの島です。今までに家を背負ったことはありませんでしたから、初日は大変でした。肩は痛み、岩場で足を滑らせて転び、グリーンストーン・リッジに着いた時には雷や稲妻、雨に見舞われました。雨は午後の間ずっと降り続け、マッカーゴー・コーブにたどり着く頃には寒くて、ずぶ濡れ、泥だらけ、そして孤独でした。
私はテントを広げ、湖に降りて行って水を濾し、食事を作り、靴下とスニーカーを乾かしました。私はフリーズドライのマッシュ(乾燥トウモロコシの粉)と1杯のテキーラを手にして古い木の桟橋に腰かけました。その時になって太陽が顔を出し、また人々も出てきました。私と同じ年頃の2人の男性は私と同じようにブーツも靴下も濡れていて、汚く、臭いまでしていました。ノルウェーから来た若いカップルは下着のまま桟橋から飛び込み、つま先だって歩きながら笑っていました。その他に年配の人々もいました。彼らのキャビン付きボートには、乾いた服、ピクニックテーブル、ボトル入りのワイン、湖でとれた新鮮な鱒を焼いた料理、ポテトサラダがありました。彼らは私たちを誘ってくれました。私たちは日が暮れるまで全員で食事をし、いろいろな話を分かち合いました。生涯忘れないであろう素晴らしい思い出になりました。それは「見知らぬ人々の思いやり」との生き生きとした、心温まる、身にしみるような出会いでした。そしてそれこそがこのサミットに私が戻ってくる理由なのです。
このイベントを組織するボランティアもスタッフも皆さんを歓迎するために懸命に働いています。新しいスピーカーを指導するプログラム、オリエンテーション、初参加者のための食事会が行われています。また、私たちのような参加経験者はオープンでいるように心がけています。私たちは飲み物を飲みながら、またポスター発表などを通して交流します。ゲームをしたり、カラオケを歌ったりもします。シロクマと一緒に走るよう誘ったり、日曜の朝にアド・ムカ・シュヴァナーサナ(ヨガの下向きの犬のポーズ)をするために早起きしたりします。
それでも何か、このサミットには落ち着かないものがあるようです。それは初心者だから居心地が悪いとか、引っ込み思案の人が多いからというわけではありません。そうではなくて、もっと深いものです。ほとんどの人がサミットに参加して素晴らしい時を過ごすのですが、何か大切なものを逃してしまったのではないかという落ち着かない気持ちのまま会場を後にします。しかしこのことはあまり口にされません。実際のところ、それは少し気後れすることなので、心の奥深くに埋め込んでしまいます。私はそのような皆さんに申し訳なく思います。手を差し伸べて、秘密を教えてあげたい。あなただけではありませんよ、と。本当です。情報アーキテクチャを理解している人などいません。私たちでさえ、それが何であるかわからないのです。それでいいのです。だからこそ私たちはここにいるのです。
ここでちょっと気分を変えましょう。そのためにはこうするのが一番。[服を脱ぐ] 大丈夫です。私は演台の後ろから離れませんので、私の足の白さを見て目がくらむということはありません。妻は私の悪ふざけが過ぎるのではないかと心配しています。その判断は皆さんにお任せするとして、私がズボンを脱いだのは伝えたいことがあるからです。ひとつではなく、いくつかあります。1つ目は、どんなときでも変化を好まない人々はいるということです。変化はそういう人たちをイライラさせるのです。次に、服は文化的な人工物、見えない価値や考えを表す象徴であるということです。3つ目は、服はコミュニケーションの手段であるということです。ですから、たった今、私のトランクスは「やぁ、みなさん、友達になろうよ、リラックスしてね」というメッセージを伝えているわけです。
私は『Intertwingled』という本を書いていて、自費出版するつもりです。表紙には動物を使う予定ですが、シロクマではありません。その本はインフォメーションアーキテクトに向けた道案内的なものになると考えています。つまりみなさんすべてのための本です。しばらくの間、その曖昧さをどう定義するか悩みました。しかし、ある時、「となりのサインフェルド」(アメリカで1990年代に放送された国民的コメディドラマ)の逆をすればいいのだと気がついたのです。何でもないものをショーにする代わりに、あらゆることについて書くのだと。『Intertwingled』は暗号から文化に至るまで、あらゆることがどのようにつながっているかを示す本です。これからそのことについてお話したいと思います。
では分類とその結果から始めましょう。私たちは常にユーザーのために体系化をしています。私たちはひとつの分類法では十分でないということを知っていますから、ファセット検索とナビゲーションを提供します。ユーザーはサンダルをサイズ、スタイル、ヒールの高さ、場所、材質、色、ブランド、価格、模様、人気等々によって購入します。そして私たちはインターフェースであるところの記号表現に限界があることに気がつきます。私たちは言葉が月を指している指にすぎないことを知っています。ですから私たちはユーザーにとって何か意味のある言葉を使ってオブジェクトにタグをつけるよう勧めているのです。
ユーザーのためにうまく体系化できないわけではありません。私たちは自分自身を体系化することが苦手なのです。オブジェクトのためにタグやファセットを使うのに、人に対しては一枚岩的な分類を用いるのです。ジョンは開発者、ジェーンはデザイナー、サラはマーケティングの仕事をしている、デイヴはサポートの仕事だ。一度縦割りにしてしまうと、共同作業は困難になります。ですから私たちの最大の障害となっているのはデザインとテクノロジーではなく、ガバナンスと文化なのです。きちんと定義された目標や役割、関係、プロセスまたメトリクスといったものがなければ質の高い製品やサービスは創り出せないのですが、あまりにも頻繁にシンプルで表面的なものにとらわれてしまいます。計画と実行は分割され、私たちは学ぶことができません。「私たち」と「彼ら」は分けられ、分断されてしまいます。「分類」というものはほとんど気づかないうちに「協力」を形作っているのです。
『Sorting Things Out』という本の中に次のような一文があります。
「カテゴリーとは、ある観点に価値を与える一方で、別の観点をなくすものである。これは本質的に悪いことではない - 実際には逃れることのできないものである。けれどもそれは倫理的な選択であり、それゆえに危険なものである - 悪いものではない、危険なのである。」
すべての地図には落とし穴があります。このことを事実と捉え、共有することは危険なことですが、悪いことではありません。最初のステップは私たちのカテゴリーがどこから来たのかを見ることです。私たちの身体的な経験は言葉によって具体化し、知らない間に私たちの思考を形作ります。これは二項対立を見れば明らかです。イン-アウト、アップ-ダウン、男性-女性、自分-他人、というように。二分法は理にかなったものです。私たちは「寒い」との関係においてのみ「暑い」を理解することができるのです。けれども、初めの言葉の方が主になりがちです。これらの組み合わせは階層的なものが多く、対称的なものではありません。ですから「アウト」よりも「イン」の方が、「ダウン」よりも「アップ」が、また「偽」よりも「真」、「悪」よりも「善」、「彼ら」よりも「私たち」が良い、ということになるのです。ここが私たちにとって問題となるところなのです。二元性が役に立つのはそれがシンプルだからですが、同時にそれが役に立たない理由でもあります。昔の諺に「世の中には二種類の人間がいる。二種類の人間がいると信じる人間と、信じない人間だ」というものがあります。私たちは自分自身を表し、組織することにおいて、より創造的に、より勇敢になることでもっとうまくできるようになるのです。
私たちのデフォルトは幼児期の砂場のような境界型集合です。ものごとは中か外に区切られます。手軽さからこの区別を用いますが、だからと言ってそれが正しい区別になっているというわけではありません。より良くするためにはその曖昧さを認識していなければなりません。こういったものには中心部があり、周辺部分がありますが、はっきりした境界はありません。ウィトゲンシュタインはこの曖昧さが伝わるよう「ゲーム」のカテゴリーを使いました。ゲームにはスキルや、他のプレーヤーの運が必要なものがあり、また自分が勝てるゲームがあり、あるいは勝てないゲームがあります。そのカテゴリーは重複した共通性や家族的類似性によって統一されています。ゲームを定義づけるのは難しいことですが、ゲームを見ればそれがゲームであることがわかります。ほとんどの集合は表層的には境界のあるもののように見えますが、中身は曖昧なのです。それらを定義づけることは簡単だと思うのですが、それは定義づけられないとわかるまでのことです。この失敗には自由があります。なぜならその集合は石の中にあるものでなく認知の中に内包されたものであると認めれば、私たちはそれらをより創造的に区分できるようになるからです。
世界有数の宣教文化人類学者であるポール・ヒーバート(Paul Hiebert)は、1978年に集合論を考案した際こう区分しました。ヒーバートは、宣教師としてインドで働いた経験から「たった一度福音を聞くだけで文盲の農夫がクリスチャンになれるものだろうか?」という疑問を抱きました。当時の教会は、明確な定義で教会員を境界型集合として構成し、信仰や価値観にも細かな決まりがありました。ヒーバートは中心を定義することで、また、場所よりも方向性に注意を払うことでカテゴリーを形成するといった、それまでより包括的で大胆な方法を提案したのです。彼のモデルでは、誰であれキリストの方向へ向かうならクリスチャンなのです。知識と成熟度によって中心により近いメンバーもいますが、その集合の中では全員が同等のメンバーなのです。それは寛容さ、変化、そして多様性に価値を置くオントロジーであり、「私たち」と「彼ら」の境界を緩やかにし、透明性を高めるものです。
2012年にダン・クリン(Dan Klyn)はこの理論を用いてUXと情報アーキテクチャの関係を再構成しました。彼はこの理論を猫の群れに例えています。それぞれの集合の中心にはミルクの入った皿があります。これは有用な地図であり、罠でもあります。なぜなら猫は2つの場所に同時にいることができないからです。
『パイの物語』に素晴らしい場面が出てきます。若きパイは母親、無神論者の父親と一緒に街を歩いていたところ、パイが三賢者と呼んでいる導師、神父、イマーム(イスラムの指導者)に一度に出くわします。怒りに満ちた口論のあと、パイは「同時にヒンドゥー教徒と、キリスト教徒と、イスラム教徒になることはできません。不可能です。どれかひとつを選んでください」と言われます。それに対してパイは「ガンジーは『すべての宗教は正しい。』と言ってるよ。ぼくはただ神様を愛したいだけなんだ」と答えます。私たちはどの話を好むか選ばなければならないときがありますが、いつもというわけではありません。私たちはチェックボックスやスライダーの方がより多くの真理を明らかにするかもしれないのに、あまりにも頻繁にラジオボタンを使いすぎるのです。こういうことを私たちはユーザーに対して、また自分自身に対しても行っているのです。
けれども望みはまだまだあります。まず気づくことが第一歩です。猫を区分する方法はひとつではありません。一旦、扉が開いたら、お互いの違いや類似点を喜び合う方向に自分自身や同僚を少しずつ動かして行けばいいのです。
私たち全員に必要なことのひとつは計画に関する考え方を変えることです。計画することはひとつのリテラシーですが、検索と同様、学校では教わりません。けれども仕事また人生における成功のカギとなるものです。私たちはイベントや旅行、家族、サイト、システム、企業、また街を計画します。つねに行なっていることですが、同じ間違いを犯します。最初は先延ばしにしてしまうのです。複雑さを恐れるあまり、スタートが遅れてしまいます。すると、あわててしまい、立案や実行をフェーズや役割に分けてしまうのです。私たちは自分の考えに線を引き、分離してしまうのです。思考-実行(Think-Do)、計画-構築(Plan-Build)という二項対立は神話です。陰と陽のように、このふたつは別々の力のようですが、実際には相関し絡み合っているのです。一方がなければもう一方を(うまく)行うことはできないのです。
私がアイル・ロイヤル国立公園への旅行を計画した時、私はリサーチし、リストを作りました。それだけでなく、いろいろと試してもみたのです。わが家の裏庭では携帯用コンロでやけどをしてしまいましたが、どのようにして風をよけるかを学びました。リビングルームでは「緊急用ポンチョ」を妻に着て見せました。妻は涙が出るほど笑いました。ポンチョはドライクリーニング用の袋よりも薄く、生い茂った葉でずたずたになりそうです。次にバスタブで、バクテリアや原生動物類、寄生虫に効果があると高い評価を受けている0.2ミクロンの水濾過システムを試しました – なぜなら失敗から学んでいくのは楽しく、まるでゲームだからです。だれかの脳に幼虫ののう胞でも入ってしまうまでは。
私たちはサイトやシステムを計画・実行する上でこういった教訓を生かさなければなりません。なぜならアジャイル-ウォーターフォールの二項対立も神話だからです。アジャイルのマニフェストは「計画に従うより変化に対応することを優先する」ことを掲げていますが、同時にどちらも価値があるということを強調しているのです。しかしながらアジャイルはワイヤーフレームがすでに廃れたものであるということを主張するためのプラットフォームとして使われることが多いのです。「意味」は「意図」から「解釈」へと変化してしまい、「計画」は完全に消えてなくなります。ドキュメントまみれによる死は最悪ですが、アジャイルによる死のスパイラルに向かっていくことも楽しいことではありません。
私たちの生態系が複雑化するにつれ、計画とプロトタイプがこれまで以上に必要になるでしょう。戦略や構造、スケジュールを頭の中で組み立てるなど馬鹿げたことです。アイデアは現実世界に送り出し、目に見えるようにしなければなりません。地図、スケッチ、言葉、またワイヤーフレームは必要不可欠ですが、アーキテクチャとデザインを組み立てる手法も使っていかなければなりません。
最近、私はデータベース出版社のためにレスポンシブ・ウェブデザインのプロジェクトに取り組みました。私たちのチームは迅速で安価な実験を行うためのワイヤーフレームやデザインカンプを作り、構築-測定-学習 の新しいループを可能にする HTML プロトタイプを作り上げました。こうした認知を増幅するやり方はそれぞれ類のないものですが、共に、「ひとつだけの方法」は間違った方法だということを私たちに教えてくれます。アーキテクト、デザイナーまた開発者として私たちは個々の価値観を持ち寄って、思考-実行、計画-構築を行います。あまりにもしばしば、分類することが共同作業の邪魔になります。私たちと彼らを隔て、製品には継ぎ目ができ、ユーザーには傷を負わせてしまいます。私たちが作ったものは、自分たちをどのようにとらえ、どのように分類しているかを映し出すからです。
傷の話が出ましたから、こういうお話をしてみましょう。5年前、私は丸坊主にしました。しばらく前から徐々に始まってはいたのですが、ある日、自分で完全に剃り落としたのです。妻は外出していたので、最初に娘に見せました。「クレア、驚かせることがあるんだ」と言って呼び、10歳になる娘が部屋に入ってきました。すると彼女は叫び声をあげ、部屋の隅に走って行き、胎児のように丸くなって、声をあげて泣き続けました。私は娘を抱き寄せて、大丈夫だよと慰め、娘を励ますために8歳の妹を驚かせようかと持ちかけました。けれども、クローディアを見つけた時には私たちの方が驚かされてしまいました。彼女は私を真顔で見つめ、こういったのです。「びっくりすることって何?」
変化に対しては、パニック状態に陥ってしまう人と、それに気がつかないあるいは気にしない人がいるのです。でも誰が何をするかわかるのは実際に行動を起こしてからなのです。
組織理論家のカール・ワイク(Karl Weick)は「自分が話したことを見るまでに自分が何を考えているかを知ることができるか」という問いを持って認知に対する行動の影響を考えてみるようにと勧めています。ワイクは回顧による辻褄合わせは私たちが知っている以上に頻繁に見られるものであると論じています。私たちは、まず行動し、それから自分の目的を合理化しますが、予測もその一部なのです。組織において、辻褄合わせの基本単位は二重の相互作用です。A による行動が B の反応を喚起するときに相互作用が存在するのです。そして B の応答に対する A の反応によって二重のループが生じます。このようにして意味が作られるのです。
最初の行動は過去を理解するために私たちが頭の中に作ったモデルによって形づくられます。ウェイクの言葉を借りれば、私たちの考えは自己実現の予言のように「現実-化」されます。人は頭の中にある考えを実現します。この意味において、「信じることは見ること」というフレーズはただの言葉遊びではありません。けれども、その初期行動の後、辻褄合わせはコミットメントによって複雑化するのです。ワイクはこう書いています。
人が目に見える行動を取り(行動が明らかに行なわれる)、それが取り消し不能(その行動がなかったことにはできない)であり、また意志的(その行動はそれを行なった人の責任)であるとき、人はそれらの行動を正当化しようとするプレッシャーを感じる。特にその人の自己価値が不安定である場合…このようにしてコミットメントはメタファーのように、賢明であることの敵となりうる。どちらもが疑問あるいは疑うことを最小限にするからである。
私が最近読んだ『なぜあの人はあやまちを認めないのか(原題:Mistakes Were Made (But Not By Me) )』という本でも、コミットメントの結果が探られていました。問題は私たちが他者を欺こうとしていることではなく、自分自身を騙そうとしていることなのです。自己正当化のエンジンは認知的な不調和であり、私たちが心理的に一貫しないアイデアや信条を持つときに起こる緊張状態なのです。「良い人」が「悪いこと」をする時、必ず自己欺瞞が生じるのです。そして、もし2人の人が困難な問題について対立した意見を持っているとき、時間が2人を引き裂いてしまうことがあります。
態度も能力も似かよった2人の学生がいるとしましょう。この2人は試験でカンニングをしたいという誘惑に駆られています。ひとりは誘惑に屈し、もうひとりは耐えました。1週間後、彼らはカンニングに対してどう感じるでしょう? 初めの学生は大したことではない、と自分に言い聞かせ、もう1人の学生は恐ろしく不道徳なことだと拒絶します。時間が経つにつれ、2人はピラミッドの両端を滑るように離れていき、カンニングをした人と、しなかった人はお互いのことが耐えられなくなります。著者はこのように説明しています。
ピラミッドの頂点にいる人が不安定であるとき、また利益と代価がどちらの選択にもある時、その人は選択を正当化する特別な衝動を感じる。けれども、その人がピラミッドの底辺にいるようになるまでには、迷いは確信に変わり、その人は違った道筋を選んだ人とは遠く離れてしまうことになる。
ですから、行動する前に考えてください。行動があなたの考えを形作るからです。
ピラミッドの部分で私が好きなのは真ん中です。私の下着がその理由を説明しています。私はイギリス生まれで、4年生の時にアメリカに移り住んできました。私は赤毛で、色白、奇妙なアクセントで話し、友達もいませんでした。アメリカ革命戦争では悪者の側にいました。けれども最も恥ずかしかったのはロッカールームで人目にさらされた私のパンツの色でした。イギリスでは、色物の下着を着るのですが、アメリカではどのブリーフも白なのです。男の子たちは私の鮮やかな青いブリーフを見て大笑いし、何人かは女の子にばらすぞと私を脅しました。これは言うまでもなく恐ろしいことでした。運動場で下着姿にさせられるのではないかとずっと恐れて過ごしました。そして、とうとうそれが起きてしまったのです。誰かがこっそりやって来て、私のズボンを下ろしたのです。ところが、幸い誰も気がつかなかったのです。実際に起きたことよりも、想像の方がひどかったのです。
マイノリティでいることは危険なことです。それは私がまだ幼いうちに学んだことでした。けれどもその役割は私に合っていました。私は人と群れたがるタイプではありません。私は結びつけるタイプであり、間にいる人間です。独立したインフォメーションアーキテクトです。あらゆる種類の役割、企業、文化にある、様々な人々の経験や観点から学ぶことがとても好きなのです。そして、私は橋渡しの役割であることを楽しんでいます。
私の本の次の章は文化についてです。書いていませんので、自分の考えはまだわかりません。けれども文化を理解しマッピングしなおすことは私たちの将来のカギを握るものだということははっきりしています。早速取り掛かりましょう。
エドガー・シャイン(Edgar Schein)は組織文化の専門家であり、彼のモデルは私が今までに見つけた中でも最も優れたものです。私たちはこの3つのレベルを使ってどのような組織、あるいは出来事についても質問することができるのです。1つ目は、初心者が見るもの、聞くこと、感じることは何か? 「人工物」にはアーキテクチャ、レイアウト、テクノロジー、衣服、ワークスタイル、社会的交流、そして活動が含まれます。2つ目に、正式な使命、ビジョン、価値とは何か? ゴール、戦略、倫理、ブランドは? さらに、支持されている価値と目に見える行動に矛盾はないか? 不調和は有益なヒントとなります。3つ目は、当然と受け止められていて、議論の余地もない潜在的信条は何か? です。このレベルはすべて歴史に関するものです。創始者を成功に導いた信条、行動は何か? それらの仮定は今でも有効なものか? あるいは邪魔になるものか? 将来に対するビジョンが描けないとすれば、それは自分の成功に目がくらんでいるからなのです。
文化を変えるのは容易なことではありません。それは困難で危険な任務です。最初のステップは成功のための手段を見出すことです。アーキテクチャから始めるのが良いでしょう。ガバナンスと環境における小さな変化は大きなインパクトになり得ます。あるいは、メトリクスから始めるのも良いかもしれません。フィードバックを学習のエンジンとして使うのです。加えて、振る舞いは介入の強力なメディアとなるでしょう。ちょっとした習慣が意味をなすのです。最後になりましたが、リーダーシップも重要です。しばしば変化は、トップから始まらなければならないのです。
この話はアナーバー図書館のことを思い出させます。ディレクターのジョジー・パーカー(Josie Parker)はスキャンダルのあと指導者の職務を引き受けました。財務の前任者は詐欺の罪で有罪を宣告されました。コミュニティの信頼を取り戻すため、ジョジーは「寛容の文化」を作り上げようと取りかかりました。しばらくして、彼女の努力は、罰金の免除から、街で最も美しい建物が立ち並ぶエリアでの新しい図書館分室の建設にいたるまで、すべてのレベルで目に見えるようになりました。クリスマス休暇のある日、ジョジーは書店でチャリティ募金を集めるためにギフトラッピングのボランティアをしていました。お客さんはその日とても気前がよく、募金箱は紙幣や小銭でいっぱいになりました。その時突然、ひとりの男が募金箱をひっつかみ、ドアに向かって駆け出しました。ジョジーは男を追いかけ、タックルしたのですが、その時骨折してしまいました。泥棒は何も取らずに逃げました。そしてその話は「図書館員、クリスマスを救う」という見出しで全国的なニュースになりました。
さて、本題に入りましょう。ユニコーンについてお話する時間です。これは少し危険なので、私が一口飲むまでちょっと待っていてください。[ビールを掲げる] これはディボーション・エールというものです。ロスト・アビーで作られています。カール・ストラウス醸造会社がこのサンディエゴでユニコーン・ティアーズというオレンジ・フレーバーのエールを作っているそうです。私はなんとか手に入れようとしたのですが、どうしても見つけられませんでした。とにかく、このお話は2月のアムステルダムから始まります。友人のジャレッド・スプール(Jared Spool)がインタラクションデザイン・カンファレンスに出席していて、このサミットとそのイベントの関係について(みなさんのうちの何人かの方々と)ツイートしていました。彼はこうツイートしました。
イベントが別々になっているべきか、僕にははっきり分からない。少なくとも役割で分けるべきじゃない。
なぜなら僕の考えでは、コミュニティに対してポジティブでない不和が生じているからだ。
別々のグループでいることが(たとえ重なっていても)長期的に見て良いとは思えない。
さて、この土曜の夜、私はアナーバーにいました。寝る時間でしたが、私は少しだけストリームを確認したいという誘惑に勝てなかったのです。それで、私はパソコンを開くと、このようなツイートが私の扁桃体(大脳辺縁系の一部。恐怖や攻撃といった情動反応の処理と記憶に関する主要な役割を持つ)にまっすぐ飛び込んできました。真剣な話、私たちは自分たちのカンファレンスをひらくこともできないのでしょうか? 数秒も経たないうちにアドレナリンが私の体を駆け巡り、気がつけば私も反応を書き込んでいました。彼らが何を言おうとしていたのか正確には思い出せないのですが、ユニコーンによってシロクマがはらわたを抜かれたというようなものでした。幸運なことに私の前頭皮質はコントロールを取り戻し、共感する方へと動き始めました。
ジャレッドはユーザーエクスペリエンス・デザインのための学校建設に公に関わっているので、考え方をひとつにする立場にある、ということを思い出しました。これが複雑なところなのです。
一方では、ユニコーン・インスティテュートについて私は嬉しく思っています。世界は彼らのようなゼネラリストを必要としています。この学校は成功するでしょう。しかし、他方ではスペシャリストも必要不可欠なのです。世界はインタラクションデザイナー、コンテンツストラテジスト、そしてインフォメーションアーキテクトを必要としています。私たちは多くはないかも知れませんが、インパクトを与えることはできるのです。マーケティングやエンジニアリング、ユーザーエクスペリエンス・チームによる厄介な問題解決の手助けをし、専門知識や熱意を本やイベントを通して共有します。分野間の緊張があるでしょうか? あるかもしれません。けれども、知的自由、学術的情熱そして多様性を得られることにくらべれば、小さな代償にすぎないのです。
今年の初めに、ジェレミーという名の男性がブログに「私はインフォメーションアーキテクトです」というエントリーを投稿していました。それはよく書けた、励みになる、また1980年代を思い起こさせるような告白文でした。マイノリティに属していることは危険なことです。自分が誰なのかを明らかにするには勇気がいります。私たちは誰もが時にはマイノリティになります。ですから、そうでないときにはもっと親切になりましょう。ゼネラリストもスペシャリストもお互いを必要としています。これはゼロサム・ゲームではないのです。ですからジャレッドと彼のユニコーンに乾杯しましょう。いつかコラボレーションができることを楽しみにしています。
私はインフォメーションアーキテクトです。今、私の墓石にそう刻んでもらってもかまいません。これは肩書ではなく心構えなのです。IA ありき、ゆえに我あり、なのです。もちろん、私たちは未だにそれが意味するものを発見しようとする過程にあるのです。まだ皆さんがお気づきでないなら、シロクマの解禁期なのです。それでいいのです。けれどもみなさん、実際には銃は必要ではありません。先ほど申し上げたように、これはゼロサム・ゲームではないのです。ウェブサイトの構築、組織化はかつてないほど複雑に、また重要なものになっています。けれども、私たちはそれ以上に熟練しているのです。おそらく、情報アーキテクチャの「枠を組み直す」のではなく、「枠を外す」べきなのです。私たちの学派は互いに排他的ではありません。ひとつだけに限ってしまう必要はないのです。
ここ数年に出てきた新しい定義にはわくわくしています。アンドレア・レスミーニ(Andrea Resmini)とルカ・ロサッティ(Luca Rosati)は、クロスチャネルのマニフェストで生態系の情報アーキテクチャを定義しました。その後、ホルヘ・アランゴ(Jorge Arango)は IA を「コンテクストを超えた意味の構造的統合性」に関わる学問分野として再定義しました。さらに彼は、建築家が居住のための環境をデザインするのに型や空間を使うのに対して、インフォメーションアーキテクトは理解のための環境を創りだすのにノードやリンクを使うと説明することによって古いメタファーに新たな展開を加えました。
言うまでもなく、ダン・クリン(Dan Klyn)とアンドリュー・ヒントン(Andrew Hinton)は、IA はメタファーではないと主張します。彼らは言語は環境であり、情報はアーキテクチャであるということを知るために、体現化された認知のレンズをのぞき見るように勧めます。身体的およびデジタルな実践を統合するためのこのビジョンは、アンディ・フィッツジェラルド(Andy Fitzgerald)の「アーキテクチャは空間のレトリックである」という洞察が的を射ています。
それから、アビー・コバート(Abby Covert)もいます。人はひとりでどれくらいのことをなし得るのか? 彼女は IA サミットの共同議長であり IA インスティテュート の代表でもあります。彼女は World IA Day を発案しました。彼女はコンサルタントであり、講演者であり、教師でもあり、本も執筆しています。アビーは情報アーキテクチャがすべての人のためになることを夢見ています。全く理にかなったビジョンです。
これらの方向はすべて将来を約束されたものでありますが、どれかひとつを選ぶべきだと考えている人がいることもわかっています。Facebook のコミュニケーション担当バイスプレジデントであるケイリン・マルーニー(Caryn Marooney)はこのように語っていました。「あなたが伝えようとしているメッセージを編集しましょう。本質だけを取り出すのです。人に憶えていてほしい1行とはどんなものですか? メッセージがとんでもなくシンプルでないなら、要点になっていないのです。」企業にとっては良いアドバイスかもしれません。しかし、私たちの役に立つかどうかは疑わしいと思います。もちろん、中には反対意見の人もいるでしょう。それこそが私の伝えたいことなのです。私たちのコミュニティは多様性を喜びます。明瞭であることを好みます。しかし、IA はシンプルとは正反対のものです。私たちは表面的な振る舞いに注意を払いますが、構造の深い層のところで洞察と影響力を求めています。IA は UX のサブセットですが、UX もまた IA のサブセットなのです。私たちは実のところ、スペシャリストではないのです。IA 自体が矛盾したものです。それでいいのです。なぜなら IA は巨大で、多くのものを含んでいるからです。IA は私たちの考え方を変えていっているのです。
このスピーチのメディアは何でしょうか? 私が考えたり、書いたりする道具には電子メールや付箋メモ、ワード、そして BoardThing があります。私が意味伝達に使う道具には、自分の声、服、これらのスライド、このビールがあります。私は自分の言葉を Medium.com で発表しました。するとそれらはもうツイッターで細分化されていっています。私の言葉はすでにみなさんの頭の中のアーキテクチャに変化をもたらし、それが文化的シフトへと向かっています。もうあとの祭りです。手遅れです。皆さんの脳に「元に戻す」機能はありません。けれどもそれでかまわないのです。みなさんの心・体・環境は常に流動的なものなので。これで皆さんは私の質問に答えることができるのです。
毎朝、私は瞑想します。足を組んで座り、目を閉じ、呼吸に神経を集中します。私は内面、感覚、つながりを意識します。言葉よりも深い理解を求めます。悟りを開くまでには至っていません。そうなればみなさんにお知らせしましょう。今のところはリラックスして、人生の不安に向かう前に、毎朝の気づきの瞬間を楽しんでいます。
年を取るにつれて、私の不安は増しているように感じます。腰が悪いとか、関節が固くなったという話ではありません。私は、広告や、腐敗、外界のこと、気候変動、医原病、工場式畜産場、不注意なドライバー、二極化、帝国主義、特異主義、懇談、二分法、そしてドローンといったものに不安を感じるのです。けれどもこういった問題を解決する方法を知りませんし、それは皆さんも同じでしょう。
それでも私たちにもできることがあるのをご存知でしょうか? 個人、組織、社会のレベルで未来に対する前向きなビジョンを作り出せるように努力することです。私たちは境界の間の真っただ中にいるのです。持続性か崩壊かの入り口にいるのです。前に進んでいくためには文化を変える必要があるのです。急速には進まないでしょうが、小さな変化を積み上げることはできます。
たやすいことではありませんが、他に道はないのです。そして、このコミュニティはそれに貢献できると確信しています。なぜなら、それはすべて点をつなげていくことだからです……。
最後に、皆さまのご理解に感謝をお伝えしたいと思います。すべての賢明な方々、外部者に対する親切、寛容の文化ゆえにこのカンファレンスを愛しています。けれどもそれ以上に、私がこの IA Summit を愛する理由は、自分らしくいられること、そしてショーツを履いていられることです。
Peter Morville
ピーター・モービルは、情報アーキテクチャやユーザーエクスペリエンスといった分野の開拓者である。著書に「シロクマ本」として知られる『Web情報アーキテクチャ』を始め、『アンビエント・ファインダビリティ』、『検索と発見のためのデザイン』、『Intertwingled: 錯綜する世界/情報がすべてを変える』(原書2014年出版) がある。彼がコンサルティングを行ってきたクライアントには、AT&T、Cisco、ハーバード大学、IBM、Macy’s、米国議会図書館、国立がん研究所などがある。
これまでの実績は、ビジネスウィーク、エコノミスト、NPR、ウォールストリートジャーナルといったメディアにも取り上げられた。妻、ふたりの娘、犬の Knowsy とともに米国ミシガン州 Ann Arbor に在住。